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人間をやめたがる歌手たち──Z世代の歌唱スタイルに潜む「破滅願望」の考察
近年、J-POPの歌唱スタイルは明らかに変質している。YOASOBI、Aimer、ずっと真夜中でいいのに、ミセスグリーンアップル、ano……どの名前を挙げても、ある傾向に収束していく。それは「正確すぎるほどに正確な発声」と「人間性を極力排した、抑制された感情表現」だ。
こうした潮流は、単なるボーカル技術の進歩だけでは説明がつかない。むしろ、「人間であることをやめたがっている」とでも言うべき、冷ややかな破滅願望が透けて見える。あえて過激な言い方をすれば、Z世代のポップシンガーたちは、ボーカロイドになりたがっている。
正確な歌唱=技術の進化か、感情の放棄か?
まず、素直に認めたいことがある。彼ら/彼女らの歌は、昔より明らかに上手い。たとえば、1990年代のJ-POPを象徴するGLAYやLUNA SEA、浜崎あゆみ、Every Little Thingなどと比べてみよう。当時の歌手たちは、感情にまかせて音程を崩したり、リズムを揺らしたりすることで「味」を出していた。だが今のシンガーは違う。音程は正確に、リズムは機械のようにブレず、ビブラートも緻密にコントロールされている。
ここで私たちは「上手さとは何か?」という根本的な問いに直面する。
いまの歌手たちの正確さは、単なる“訓練の成果”にとどまらない。むしろ、そこには個性や肉体の生々しさを排除しようとする志向が感じられる。なめらかで、無機質で、どこか体温のないその歌声は、あたかも人工音声を目指しているかのようだ。
「ボーカロイドになりたい」──Z世代の感情の転化
YOASOBIのikuraの歌声を聞くたびに感じるのは、完成度の高さと不可解な“距離感”である。彼女の発声には、たしかに感情は込められている──だが、それはあくまで抑制された感情であって、生々しい心の叫びではない。感情をリアルに「込める」のではなく、感情を設計して届けているような印象だ。
まるで、“人間くささ”こそがノイズであるかのように、Z世代の歌手たちは「清潔で、精密で、壊れない歌」を求めているように見える。
その背後にあるのは、きっと世界との関わりを極限まで減らしたいという衝動ではないか。現実がしんどい、感情がうるさい、人間関係が面倒臭い──だから歌うときくらい、人間であることをやめてしまいたい。そんな「破滅」と「逃避」が、ボーカロイド的な歌唱への憧れに転化しているのではないか。
技術の進化とともに消えていく「熱」
もちろん、音楽技術の進歩そのものを否定するつもりはない。むしろ、ピッチ補正技術やDAW環境の充実、ボーカル教本の整備、SNS発信による分析系ボーカル指導など、歌唱指導の領域はかつてないほど理論的になり、開かれてきている。
だが同時に、こうも感じるのだ。声の熱が、体臭が、息づかいが、どんどん消えていってしまっていると。上手さの裏にある静かな死──それを私は「上手すぎる歌」から感じずにはいられない。
「うまさ」と「生きざま」の二項対立を越えて
これはもはや、歌手個人の問題ではなく、時代そのものが「整った破滅」を求めているということかもしれない。熱狂や涙や絶叫ではなく、冷静な再現性と正確な感情演出──まるでテンプレートに沿って書かれた人生を、生真面目にトレースするかのような「歌」が求められている。
Z世代は、何かを叫びたいのではなく、「叫び方」を正確に模倣しながら静かに沈んでいく。そんなふうにも見えてしまう。
もちろん、それでも歌は残る。だからこそ、私たちは問い続けねばならない。
歌は、うまくなるほど死に近づくのか?
すべての世代の、歌をうまくなりたい人へ
名古屋で「うまくなる」ことと「自分らしく歌う」ことのバランスに悩んでいる方がいたら、オーラボイスボーカルスクールにいらしてください。
精密さだけでは届かない、けれど雑さに逃げない──そんな声を、一緒に探せたらと思います。
追記:おそらく多くの歌手は魂を込めて歌っていると思います。このブログは、音楽界のうねりを俯瞰的にとらえた内容であるため、悪意はありません。歌手個人ではコントロールできない部分について考察したブログですので、誤解なきよう。