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2025.04.02

コラム雑談

弾き語りというレッドオーシャン――才能が集まる場所の静かな競争

弾き語りというスタイルには、どこか普遍的な魅力があります。楽器を奏で、自分の声で物語を紡ぐという行為には、原始的な表現の力が宿っている気がします。とくにここ数年、「若い女性による弾き語り」は、そのクオリティと表現力において目を見張るものがあります。

SNSや動画サイトを見渡せば、驚くほどの完成度で歌い、演奏し、届ける若き才能があふれていることに気づかされます。筆者は音楽業界の片隅に身を置く傍観者ではありますが、そんな景色を目にするたびに、思わず息を呑むのです。


音楽教育が支える「自然な才能の集積」

 

この現象の背景には、日本特有の文化や教育環境があるように感じます。

まず、学校教育において音楽の授業が体系的に導入されていること。音楽理論や歌唱、楽器演奏を「科目」として学ぶことができる仕組みは、世界的に見ても珍しい水準です。さらに、ピアノという習い事が、特に女性のあいだで長らくスタンダードな習い事として定着している点も大きいでしょう。

真面目で勤勉な性格の多い日本の若者、とりわけ女性たちは、このような文化的・教育的土壌のなかで、音楽的な素養を自然と身につけていきます。音楽が「特別な才能を持った人だけのもの」ではなく、「自分の手で表現することのできる身近なもの」として育まれていく。

その結果として、10代後半の時点で驚くほど完成された弾き語りを披露する若者が登場する。彼女たちは時にプロの水準すら超える技術と感性を持ちながら、無名のまま、静かに活動を続けていることも珍しくありません。


感情の「乗せ方」もまた才能

 

ただ、今の弾き語り界は「技術が高い」だけでは注目されにくい、という厳しさもあります。どれだけ音程が正確で、声が美しく、演奏がうまくても、それだけでは心に届かない。

そこで重要になるのが、「感情を乗せる力」です。より正確に言えば、「感情が込められているように見せる力」も含まれます。

これは決して「演技」や「偽り」という意味ではありません。リスナーに何かを感じさせる力、聴く人の心を動かす何か――それを生み出す技術やセンスもまた、紛れもない才能です。

そしてこの才能は、非常に目立ちにくいものでもあります。上手だけれど心に響かない。そう言われてしまう人たちのなかにも、途方もない努力や表現の工夫があるはずなのに、それが評価されにくいのが今のSNS時代の怖さでもあります。


レッドオーシャンに咲く個性

 

今の弾き語り界は、まさにレッドオーシャン――競争の激しい領域です。誰もが高いクオリティを持ち、自己表現のための手段も豊富にあり、発信も容易になりました。だからこそ、少しの差異が大きな評価の違いを生みます。

感情表現か、歌詞のセンスか、唯一無二の声か。それとも、動画や映像としての演出力か。いずれにしても、「その人にしか出せない音」が問われる時代です。

裏を返せば、必ずしも「完成度」や「うまさ」だけが評価されるわけではなく、「なぜか心に残る」「もう一度聴きたくなる」ような不思議な引力が、価値として浮上する場面も増えています。

競争が激しいからこそ、そこに咲く個性はより強く、より繊細に、リスナーの記憶に刻まれていくのです。


最後に――静かな憧れと尊敬を込めて

 

筆者は音楽業界の片隅で、この世界をただ見つめる立場にすぎませんが、若き弾き語りの才能たちが切り開く風景には、時折、深い感動を覚えます。

彼女たちは多くを語らず、自分の声と楽器だけで、自分の人生や想いを伝えてくる。その姿は、どこか神々しくさえあるのです。

競争は激しく、注目される人はごくひと握りかもしれません。でも、その静かな戦いに身を置いている人々には、等しく、尊敬の念を抱かずにはいられません。

それは、まぎれもなく「音楽」という営みが持つ本質のひとつであるように思います。